一方で、日本の自動車産業も同じように米國の「貿易圧力」を受けた。種々の制限に直面しながら、日本の自動車メーカーは外からの圧力を発展の原動力に変え、モデル転換とバージョンアップを実現させた。米國の圧力を受けて衰退しなかっただけでなく、世界の産業競爭の中で絶えずリードを拡大した。
米日間の自動車貿易摩擦は80年代初頭にさかのぼる。當時、米國産自動車の日本市場シェアはほぼゼロに近かったのに対して、日本車の米市場シェアは20%を超え、日本は米自動車市場の最大の輸入先國となっていた。米日の自動車消費文化の違いが貿易不均衡を招いた主な原因だが、米國は同じように制裁手段によって問題の解決をはかることを決定した。
81年、米國の圧力を受けて日本の通商産業省(當時)は米國への乗用車の輸出自粛に同意するよう迫られ、日本は輸出量を168萬臺に制限することにし、以降この數字を踏まえて動態調査を行うとした。これを土臺に、米國はさらに日本に市場開放を迫り、米國車をもっと買うよう求めた。
大きく圧力をかけてくる米國の政策に直面し、日本の自動車産業はチャンスをとらえてモデル転換を加速した。まず日本は対米自動車輸出量に自ら制限を設けたが、輸出額は制限しなかった。こうして日本メーカーは米國に付加価値の高い製品を輸出するようになった。
次に「プラザ合意」による円高が、かえって円の購買力を高め、日本メーカーはチャンスをつかまえ、手にした利益で新しい設備と技術を買い入れ、モデル転換とバージョンアップのペースを加速した。
さらに輸出制限措置を回避するため、日本メーカーは米國に直接投資して工場を建設する動きを加速させた。例えば、トヨタは累計220億ドル(約2兆3808億円)の対米投資を行い、米國で14萬人近くの従業員を雇用した。このような現地化した生産は貿易戦爭のリスクを解消する上でプラスになるだけでなく、米國の消費者の日本ブランドに対する認知度を高めることにもなった。
米國の圧力に直面して、日本メーカーは低燃費で確かな品質を目指す技術開発路線を堅持し、グローバル化配置に基づく海外発展戦略を重視したとともに、「リーン生産方式」の管理理念を通じて絶えず効率を高め、コストを削減し、圧力の緩和に成功しただけでなく、米自動車工業に対するリードをさらに拡大することができた。
米日貿易摩擦の歴史を振り返ってわかることは、後発國の追いつき追い越せ式の発展プロセスは守りに入った國の警戒感を引き起こし、圧力を受けるということだ。うまく対処すれば、圧力は意味をなさなくなる。日本の関連産業の勝敗は、典型的な事例だといえる。(編集KS)
「人民網日本語版」2019年6月14日