2ヶ月にも満たない間に、日本と韓國の貿易紛爭は急速にヒートアップし、両國が輸出手続きを簡略化できる優遇國「グループA(ホワイト國)」からお互いにお互いを外したのに至って、日韓関係はほぼ「斷絶」の崖っぷちに追いやられた。(文:孫興傑?吉林大學公共外交學院副院長。「青年參考」に掲載)
日韓関係の半世紀に及ぶ発展ぶりを振り返ると、経済協力が船を安定させるための重りである「バラスト」の役割を果たしてきた。両國は歴史問題や領土問題でたびたび困難に見舞われたが、「政冷経熱」の狀態が続いていたことから、雙方がともに「けんかはしても戦爭はしない」がレッドラインであるとわかっていた。
樸正熙政権の時代には、韓國には日本の植民地だった歴史への深い恨みの気持ちがあったが、日本の経済成長にあこがれる気持ちもあった。1965年の國交回復の最大の成果は日韓経済関係が正常化したことで、韓國は日本モデルを學び始め、模倣し始めた。70年代になると、韓國は鉄鋼、自動車、化學工業などの産業で飛躍的発展を遂げた。韓國の財閥経済システムも樸政権時代に基礎が打ち立てられた。このシステムは97年の金融危機で大きな損害を受け、その後、歴代政府も経済の民主化推進を盛んに提唱したが、財閥は引き続き韓國経済の命脈を握り続けた。
韓國が徐々に先進エコノミーになるにつれ、日韓関係には競爭の色合いがますます強くみられるようになった。日本がこのたび韓國に対する輸出規制を打ちだすと、文在寅政権は「経済侵略」だとした。しかし文大統領の態度はずっと一貫していたわけではなく、8月15日の「光復節」での演説では、「韓國は日本と安全分野、経済分野で絶えず協力を展開し、日本と共に植民地時代の被害者の苦しみを癒やし、手を取り合って協力する立場を堅持する」と述べた。ここからわかるのは、文大統領が特別な意味をもつ場面で、日本に事態緩和のシグナルを送ったということだ。
日韓関係が短期間で対抗のロジックに陥った根本的な原因は、日韓関係の構造に裂け目が入ったことにある。経済協力はもはや日韓関係の「バラスト」ではないのだろうか。半世紀前に基礎が打ち立てられた日韓関係の基礎は変化しつつある。かつて、樸大統領は韓國経済の発展を促進するため、日韓の間に橫たわる歴史問題を一時棚上げしたが、韓國経済が発展するにつれ、國としてのアイデンティティを構築する過程で、歴史問題は現実的な政治問題へと徐々に変わっていった。65年の「日韓請求権協定」で覆い隠した積年の恨みはまだ十分に晴らされていないが、日本は一貫して紙一枚の協定ですべての面倒な問題は解決できるとの見方を示し、こうした考え方は日韓が「慰安婦」問題で達成した合意にも現れている。韓國にとって、歴史問題はまったく解決されていない。日本からの賠償金は韓國が19世紀から20世紀にわたって受けた苦痛を補うにはまったく十分ではない。