日本と米國の貿易摩擦は1950年代初期から斷続的に続いているが、特に激化したのは80年代だった。この時期は定番となっている鉄鋼、自動車、繊維製品などの物品貿易摩擦のほか、ハイテクについての貿易摩擦も両國間の最重要課題になった。日本の従來型貿易および新興ハイテク貿易の脅威に直面して、80年代の米國は日本に全方位的で多層的な圧力をかけるプロセスを開始した。具體的にいうと、通常の経済的手段だけでなく、政治や金融などいくつもの手段を総合的に駆使して、相手に圧力をかけ、ナンバーワンの地位を維持する目的を達成しようとした。(文:王広濤?復旦大學日本研究センター青年副研究員。「環球時報」掲載)
日米貿易摩擦が真っ先に反映したのは、両國経済貿易における不均衡の問題だ。米國が日本企業に経済制裁を加えるのはもはや常套手段で、1974年に「通商法」第301條を打ち出した後、日本は冷戦時代に最も多く301條に基づく調査を受けた國になった。データによると、75-97年に米國は日本に301條調査を16回発動しており、米國の狙いが成功し、日本が妥協を迫られて譲歩して終わるというケースが多かった。301條調査の主な內容は、貿易対象國の輸出補助金、貿易自由化措置、輸入関稅、非関稅障壁などで、日本が対米貿易でいつも採用してきた政策ばかりだ。このため米國にとっては切り札になり、調査はいつも確実に成果を上げてきた。
米國は301條調査と政府によるいつもの制裁などでは対日貿易赤字を効果的に削減できなかったことから、今度は通貨政策や金融政策などで日本をやり玉に挙げるようになった。85年に米國は他の西側諸國を巻き込んで「プラザ合意」を可決して日本に円高を迫った。それからしばらくして、円は50%近く値上がりし、円高が日本の経済?社會の発展に與えた甚大な影響は貿易摩擦それ自體の影響を上回った。米國にしてみれば、最初の狙いは円高を迫ること、そうして対日輸出で競爭上の優位性を獲得すること、同時に日本の対米投資を増やすことだった。しかし対日輸出貿易の伸びには限界があり、日本が投資や合併買収(M&A)を通じて「米國を買う」現象が多発した。日本の対米投資?M&Aの成果はともかく、米國國民の心には「日本の脅威」への恐怖が生まれ、貿易摩擦は悪循環に陥っていった。
こうしたミクロ的な制裁と圧力のほか、マクロの視點でみると、米國はこれまでずっと日本を成熟した自由市場國と認めてこなかった。米國は米日間の貿易不均衡は日本の體制內部に原因があると考えたため、「內政干渉」に近いやり方で日本の政治経済體制の改革を促すことが多かった。89年に両國は「日米構造協議」を締結し、最終的な結果として日本は流通制度、投資障壁、輸出規制などで多くの改革を行うことになった。特に農産品分野は市場開放の原則が打ち出され、それ以降に米國産農産品が日本市場に大量に輸出されるための基礎固めがなされた。しかし実際には、日本はこれ以前にすでに経済構造や行政構造の改革を意識的かつ段階的にスタートしていたのであり、80-90年代に日米間で先鋭化した「構造協議」は、日本の內部で生まれた構造改革のプロセスを中斷してしまい、90年代の日本の政治的安定と経済発展にマイナスの影響を與えた。