<在中日本人の記録番組>中國(guó)と共に生きる 第27回>>>
中國(guó)起源の「書(shū)の造形蕓術(shù)」書(shū)道。書(shū)道は中日両國(guó)の文化交流の上でも重要な役割を果たし続けてきた。今回は、北京の中央財(cái)経大學(xué)書(shū)法學(xué)學(xué)科で中國(guó)人大學(xué)生たちに日本の書(shū)道を伝える莊村真琴さんをご紹介する。(北京滯在歴10年)
尊敬する恩師の勧めで中國(guó)へ
2歳10ヶ月から習(xí)字教室に通い始めた莊村さんは、道を聞かれても「あの面白い『う』の文字が書(shū)かれたうどん屋さんを右に曲がって」とユニークな説明をするほど文字にばかり興味を持つ子どもだった。中學(xué)時(shí)代に文部科學(xué)大臣賞を受賞したことがきっかけで書(shū)道の道に進(jìn)むことを決意。大學(xué)は書(shū)道學(xué)科に入學(xué)し、大學(xué)院にも進(jìn)學(xué)した。修士課程在籍中に1年間中國(guó)へ留學(xué)。修士課程修了後も恩師の勧めで中國(guó)行きを決意した。
莊村真琴さんと師匠の西嶋慎一氏
留學(xué)生活と教員への道
留學(xué)當(dāng)初の中國(guó)語(yǔ)は日常會(huì)話レベルだった莊村さんは、再度修士課程から學(xué)び直すことに。受講中も聞き取れない箇所などは同級(jí)生にジェスチャーを交えながら確認(rèn)する日々だった。博士課程2年の時(shí)、中國(guó)行きを勧めてくれた恩師であり、師匠でもある田中東竹氏が他界。留學(xué)を終えたら師匠の近くに戻りたいと考えていたため、莊村さんは行き場(chǎng)を失ってしまった形となった。そんな時(shí)、中國(guó)の大學(xué)の恩師から、中國(guó)の大學(xué)の教員にならないかと聲をかけられ、現(xiàn)在の中央財(cái)経大學(xué)の教員への道が開(kāi)けたのだという。
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