「中國人と日本人が友達になることはできるのか?」という問いかけに対し、「もちろん。始めは友達ではなくても、一緒にいる時に、相手が自分に親切にしてくれると、その人のことが好きになる。そして、その人の國も好きになる」と答えたのは日本人俳優?渋谷天馬。このほど人民網の獨占インタビューに応じ、夢を追いかけ、その夢を中國で葉えるまでのプロセスを語ってくれた(文中敬稱略)。
子供の頃からの夢を追いかけて米國に留學
1969年に埼玉県で生まれた渋谷は、中國で活躍する日本人俳優の一人だ。
渋谷天馬(畫像は本人提供)
「子供の頃は、世界の舞臺で活躍するジャーナリストになるのが夢だった。だから、高校を卒業した後、米國に留學した。でも、米國に行って2年ぐらい経った時、母親が病気になったので日本に帰った。その時は、母親の世話をしながら、米國で留學を続ける準備をしたいと思っていた」。
ところが、帰國後バイトをしている際に、腰を痛めてしまい、全ての計畫が暗礁に乗り上げてしまったという。「そうしているうちに6年が過ぎ、『留學してジャーナリストになり、世界の舞臺で活躍するほかに、今は何をしたいと思っているのか?』、『今できることには何があるのだろうか?』など、自分に問いかけた。そして、その答えが『俳優』だった」。
米國をあきらめて中國へ
こうして、渋谷は演出から手始めに演技を學び、演劇の世界に足を踏み入れた。
「そうこうしているうちに10年が過ぎたけど、海外に行く機會はずっとなかった。それで、海外に行ってみたいと思うようになった。有名になれるかは重要ではなく、チャンスを探したかった。海外で活躍したいというのが、僕が本來したかったことだったから」。
しかし、どこにいけばいいのだろう?
「米國のハリウッドに行けばいいのだろうか?でも、米國人からすれば、アジアの役者であれば、中國人でも、日本人でも、韓國人でも演じさせることを知っていた。アジア人の役なら、米國人にとっては、アジア人の顔であればどの國の人が演じても一緒なのだ」。
米國以外なら、どこへ行けばいいのだろう?
中國電影(映畫)博物館で、カンフー映畫「少林寺」は、日本で大ヒットしたと紹介する渋谷天馬。
「當時、日本では、香港地區のカンフー映畫がとても人気だったので、僕は、香港地區のことはわりと知っていた。そして、香港地區は既に中國に復帰していたので、これからは香港の人々も普通話(標準中國語)を話し始める。だから、まず普通話をマスターすれば、香港地區や臺灣地區なども含めた中國全域、ひいては東南アジアでも中國語を使えると思った。英語も中國語も話せるなら、世界の3分の1以上の人とコミュニケーションを取れるようになる。それに、當時は中國も発展をし始めた時期だったため、世界中も中國に注目していた。それらのことを考えると、とてもワクワクした。これこそがグローバル化じゃないかと。それで、中國大陸部に來ることにした」。
世界の人々と一緒に仕事ができる中國で活躍中
「2006年に中國に來てから、始めの3年間で受けた仕事はたった2、3件だった。しかもどれも、1週間ほどで撮影が終わってしまうような役柄だった。そして2008年に『イップ?マン 序章(原題: 葉問)』に出演する機會を得た」。
「イップ?マン 序章」で佐藤隊長役を演じる渋谷天馬。(畫像は本人が提供)
「中國は目まぐるしく変化している。以前なら、外國の製作グループが中國でロケをする時にしか、他の國の人と一緒に仕事をする機會がなかった。でも、今は全く異なっている。中國は大きく、その市場も大きい。中國の映畫のグローバル化もますます進んでいる。今は、映畫などの撮影をする時に、米國や歐州の有名な俳優がたくさん起用され、製作グループの中にも外國人スタッフがたくさんいる。このように外國人と一緒に仕事をする機會は、日本よりかなり多い。それが、僕がすっと中國で俳優を続けている主な理由だ」。
「たくさんの中國の一般の人々を、僕は『友人』と呼んでいる。その友人たちに実際に會ったことはないけれど、みんなインターネットを通して、メッセージを送ってくれ、僕を勵ましてくれている。それに僕はとても感動していて、大きな勇気をもらっている。それも、僕が中國でがんばり続けている理由だ」。