大學生時の無心の研究が基礎に
佐藤教授によると、高校生の時に大學で理系を學びたいと思っていたものの身體検査で色盲であることが判明したため、文系に変更したという。そして、1976年、広島大學に入學し、中國文學を専攻した。當時、中國語は全く分からず、中國についてもほとんど知らなかった。しかし、同大學卒業後、同大學院文學研究科の修士?博士課程に進んで5年學び、「その期間が自分の成長にとってカギとなった。特に、中國古典文學研究の面で多くの成果を収めていた恩師の森野繁夫先生からはたくさんのことを學んだ。漢學研究には多くの時間が必要で、先生も私も週末も休まずに、朝から晩まで研究に沒頭した」という。
その苦労は報われることになる。若い時に多くの論文や専門書を発表したほか、後の中國古典文學研究のための基礎を築いた。卒業後は、安田女子大學の講師や広島大學の文學部助教授などを務め、その期間も中國六朝文化の研究を継続。多くの研究成果を収め、論文や専門書を発表し続けた。著書「王羲之全書翰」(1996年)などは中國語に翻訳され中國でも出版された。
佐藤教授が初めて中國を訪問したのは大學2年生だった77年。當時の中國は改革開放(78年)前だった。2回目はそれから24年後の2001年。その20年以上の間に中國は大きく変化し、佐藤教授にとっては別の國を見るかのようだった。その時に、佐藤教授と中國の同分野の専門家との交流の門が開け、佐藤教授がセンター長を務める広島大學北京研究センターが02年に首都師範大學に設立された。その後、佐藤教授は中國に頻繁に訪問して、授業や講演、學術交流などを行った。これまでの十數年の間に、佐藤教授は200回以上中國を訪問した。