1894年7月25日、日本の軍艦が豊島海域で済遠、広乙の兵士輸送船2隻を宣戦布告せずに急襲し、甲午戦爭(日清戦爭)が幕を開けた。1カ月以上後の黃海海戦において中國艦隊はの日本艦隊に敗れた。翌年2月、アジア最強と言われた艦船25隻、4千人以上の兵士を備えた中國の近代的海軍艦隊である北洋艦隊が、威海衛(現在の威海市)で全軍が敗れた。
敗戦した中國は日本と不平等な「馬関條約」(下関條約)を結んだ。條約には臺灣島及び全ての附屬島嶼、澎湖列島、遼東半島を日本に割譲すること、日本に軍費の銀2億両(1両は50グラム)を賠償することなどが含まれていた。この後、中華民族はさらに深刻な災難に陥り、亡國と滅亡の縁へと一歩一歩進んでいく。甲午戦爭は中國の各階層の人々を覚醒させ始め、様々な形式で救國の活動へと身を投じさせることになる。
再び甲午の年がめぐってきたが、炎黃の子孫(中國人)は國辱を忘れず、使命を心に銘記し、國のために力を盡くす。(編集YH)
「人民網日本語版」2014年7月25日